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2023.04.08

建物の外部被害に関わる資料 その 14 『 竜巻 ⑭ 』

顧問の坪内です。

佐賀地方気象台の鳥越準氏と熊谷地方気象台(前佐賀地方気象台)舘知之氏が書かれた資料の続きです。
(前回同様、青字は鳥越氏・舘氏が書かれた論文そのもので、赤字はその中で興味ある個所です)
鳥越氏・舘氏は多くの表や図を作成して論文を分かり易く表現されていますが、専門家なので所謂専門用語も使われており、少し分かり易く文章を変更している箇所もありますので悪しからずお願いします。
又、以下の文章は添付されている表や図を省いて説明しています。
 この情報から、竜巻は宮崎県が圧倒的に多く,宮崎市から耳川南部の海岸地帯に集中している.このことは畠山( 1966 )はじめ多くの人が指摘しているとおり,この県の大きな特性である。
月別発生数年別の資料によると, 1954年から発生数が急に増加したことがわかる。
これは藤田ら( 1972 )が述べているように,戦後の混乱期を過ぎて,異常気象に対する調査や報告がしだいに充実したことにも,大きな原因があると思われる。
その後1962年までは年6個以上の発生をみたが, 1963 ~ 675年間はまた少なくなり、特に1965年は陸上・海上とも1個も報告がなく, 1966, 73両年も陸上では全く発生していない。
月別発生数では, 3 ~ 5月の春にきわめて少なく, 3 月には,陸上でこの27年間に1個も発生した記録がない。
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月から9月にかけては74個を数え,この3 カ月で全体の55 %に達している。
なかでも9月は群を抜いて多くなっているが,これは宮崎県,鹿児島県で台風や前線による発生が多いためである。

 原因別発生数の調査では.陸上のたつまきは,宮崎県では台風に伴うものが大部分を占めるが,同じ九州南部でも鹿児島県では,寒冷前線や梅雨前線などの前線によるものが多くなっている。
一方,
山口県と九州北部の福岡・佐賀・長崎県では寒冷前線や温暖前線,また,中部の熊本県では梅雨前線やその他の停滞前線,大分県では高気圧に起因するもので、有明海北部沿岸地方に発生するたつまきの地域的特性でもある。
 九州および山口県におけるたつまきの多発地は,まず第1に宮崎県南部,次いで
枕崎市を中心とする薩摩半島南部であって,これらの地方では台風や前線に伴うものが大部分を占める。
また島処では,長崎県の五島,鹿児島県の種子島および沖永良部島に,比較的に多く発生している。
ところで,有明海北部沿岸地方では九州北部,中部の他の地方にくらべると,たつまきの発生が多くなっている。
この地方では,
雲仙岳と多良岳の間を通って来る下層の南西流に対する収束が強まり,局地的に不安定な成層となりやすいことがわかる。
特に,
佐賀県鳥栖市,福岡県久留米市や柳川市周辺では,たつまきのほか集中豪雨や降ひょう等の局地的な異常気象が多く,最近では19727月の柳川の集中豪雨や, 1120日鳥栖市のたつまきの直後,久留米市東方山ろく一帯に大きな農作物被害をもたらした降ひょうなどがある。

さきに平野( 1968), ,九州の地形性降雨を調べるため、ある地点を出発点とする15kmの格子点における地形上昇流を求めた.南西および南風(10m/s) に対するその結果を調査しているが,有明海北部沿岸地方はこれらの風に対する地形上昇流が大きく水平の広がりも大きくなっている。

このような地形効果から,昭和期の42年間にこの地方に発生した22個のたつまきは,
季節的には梅雨末期から夏の初めにかけて多く( 6 ~ 8月で1777 %) ,
原因別では梅雨前線や寒冷前線および太平洋高気圧周辺部の不安定によるものが大部分を占め, この地方に南西~南の気流がはいるときに発生が多い
その一つは脊振山における雷の観測です。
昭和22年当時はコピー機がなかったため、近隣の観測所を一つずつ訪問し、
手作業でデータのコピー・収集をされていたそうです。
そうして苦労して集めたデータをもとに、
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時間ごとの天気図だけでなく、10分ごとの天気図を作成しており、
当時としては非常に画期的な仕事でした。
それを基に、雷雲の下降気流の存在と冷気外出流の存在を発見されました。

しかし、あまりに先駆的な業績であったため、
当時の日本ではあまり評価されませんでしたが、
米国で高く評価されたため、
昭和28年に「台風に関する解析的研究」で
東京大学の博士号取得後、シカゴ大学へ赴任されました。

この様にして発見された背振山の「下降気流」が
藤田博士をミスタートルネードとして世界に送り出した訳です。


米国での藤田博士は1960年代にかけて、高層観測、レーダー、航空機観測、地上気象観測など多くの観測データを精力的に収集し、緻密な解析を用いた局地気象の解明を行ない、メソ高気圧、メソ低気圧などを発見するなど、新しいメソ気象学(大きさが2000kmの範囲)を開拓されました。

 1970年代の有名な竜巻の研究では、航空機観測、現地調査により非常に広範囲な調査を行ない、被害状況から竜巻の風速スケールを推定する藤田スケールを考案し、現在でも採用されているところです。
また大きなスケールの渦の中には、小さなスケールの渦が存在することを見出し、実証もされています。
 近年では台風の目から400km以内の場所に竜巻が発生すると言われています。
このように広範に竜巻を研究されたことで、藤田博士は、米国では「ドクター・トルネード」と呼ばれています。
 1980年代には、ダウンバーストが大気現象に存在すること、更により小さいスケールで、より破壊力の大きなマイクロバーストの存在も提唱し、解明されました。
 これは、終戦時、広島・長崎の原爆の調査をされたときに見た光景がヒントになったということです。
特に、1975年に米国のイースタン航空機の事故があり、このときのデータを非常に詳細に解析され、マイクロバーストが原因であると結論されています。
 その後、学会では大きな議論となりましたが、藤田博士は非常に大掛かりな観測網を展開し、ダウンバーストの存在を実証する研究を進め、デンバー空港付近でのドップラー・レーダー観測では、マイクロバーストの存在を実際に確かめています。
 これらの研究により、航空機の安全のため、ドップラーレーダーの必要性が認識され、ドップラーレーダーの整備・展開、操縦法の改善などが行われ、航空機の安全に大きな貢献をされました。
藤田哲也博士の優れた研究のお陰で、現在飛行機が安全に飛行でき海外に旅行・出張で出掛ける事が出来るのです。
 これらの業績で藤田哲也博士は日本気象学会の岡田賞、藤原賞をはじめアメリカ気象学会でも多数の賞を受賞されています。

下図は1972年から2007年までに佐賀県で発生した竜巻です。
オレンジ色の枠の1986年は私が福岡に赴任していた頃です。
また、吉野ヶ里遺跡が発見された年でもあります。
表の一番下の19721120日の竜巻は鳥越準・舘知之氏発表資料にあるように、
原因は寒冷前線によるもので被害は「住家半壊」15軒となっています。
そして、19861010日の竜巻です。
相知町は背振山から30kmほど西の山間です。
藤木町は背振山から南東の鳥栖市と久留米市の間の町です。
どちらもあまり大きな被害は無かったようです。


                 佐賀気象台調べ


実は私が福岡に赴任していた時、佐賀で風により屋根材が飛散した事件がありました。
この話はもう少し先にお話しすることにします。

私が福岡に赴任していた時の大きな竜巻と言えば1990219日の枕崎竜巻です。
竜巻発生から2日後に一人で枕崎に向かいました。
枕崎駅に着くとレンタカー借りて枕崎市役所に向かいました。

   気象庁(1990.02.19枕崎竜巻)発表


市役所で被害状況を聞こうと思ったのですが、市役所には詳しい情報は無く、
消防署が良いよと教えられました。
建物被害の情報を得て、次は警察が良いよと教えられました。
警察へ行くともっと詳しい事は駐在所が良いよと教えられました。

       グーグル地図(枕崎周辺)

市役所、消防署、警察署の情報をまとめて、
竜巻発生地点の塩屋南町に行きました。


MBC南日本放送(かごしま防災スイッチより①)


現地では平屋住宅が1軒丸ごと飛んで行った現場や、
電線に多くの布団やカーテンが簸かかっている現場を見ました。
途中屋根破損、壁破損、住宅全壊の現場を見ながら、
竜巻消滅地点の寿町に行きました。

MBC南日本放送(かごしま防災スイッチより②)


この枕崎竜巻は当時九州で最大級の竜巻と言われました。
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数年前の竜巻被害への対応は私が調査したように、
被害情報や支援対応も適切な対策少ない様でした。
何事もその場対応の感はありましたが、個々の部署の人たちは非常に親切でしたが
全体の取り纏めはありませんでした。

MBC南日本放送(かごしま防災スイッチより➂)


竜巻の概要として発生場所は枕崎市塩屋南町で消滅場所は枕崎市寿町でした。
規模として巾は200mm、長さは34km
藤田スケール(Fスケール)F2F3なのでかなり強いレベルのものです。

 MBC南日本放送(かごしま防災スイッチより④)


先般の館林竜巻がF1程度でしたので屋根被害を部分的には詳細に捉えることが出来ましが、
この枕崎竜巻は建物全体の被害の規模も大きく屋根に特化した映像も少ない様でした。
それでも、当時の残された映像から分る範囲で学んでみたいと思います。

どうもありがとうございます。