2023.06.03
建物の外部被害に関わる資料 その 18 『 台風 ➂ 』
顧問の坪内です。
前回、室戸台風(昭和9年(1934)9月21日午前5時上陸時の建築界での数字記録値は
最低気圧911 hPa
最大瞬間風速63m/s
観測時の風速計の高さ 15m
が一般的になっているお話で、「四国災害アーカイブス」の掲載文を参考に探ってみました。
その中で一番古い藤原咲平「(講演)関西風水害を起したる室戸台風に就て」
(土木学会編「土木学会誌Vol.21-8」1935年)、
1049-1059頁 情報源の種類 学術論文、雑誌論文
を紹介しました。
藤原 咲平(ふじわら さくへい)は(ウィキペティアから抜粋)
1884年〈明治17年〉10月29日~1950年〈昭和25年〉9月22日)は、日本の気象学者です。
以下略歴を探ってみます。
長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれ、
1909年7月に東京帝国大学理論物理学科を卒業し、
中央気象台(現・気象庁)に入って技術見習員講師となります。
1910年には積雪中の熱伝導の問題を研究などの行い、
「雷雨報告」第一号や「雨量年報」の編集に携わるとともに、
風向観測法の研究も行われています。
この頃、港の水門付近に発生した渦を見て、渦巻への関心を持つようになり、
ロンドンで実験を行い、王立気象学会誌に渦動論を発表しました。
1924年、東京帝国大学教授。1933年にカナダ汎太平洋学術会議に出席し、
1941年12月からは国際気象評議会幹事を務められました。
この間の1934年に室戸台風が発生したのです。
1941年7月30日第5代中央気象台長に就任されます。
戦時中は軍の嘱託で風船爆弾の研究にも携わり、そのことが原因で戦後公職追放とされ、
1947年7月に中央気象台長を退任。以後は野にあって著述に専念されます。
1950年、胃癌のため死去。
「お天気博士」の愛称で親しまれました。
現在の気象用語の基礎を作られたのです。
そして、日本気象学会は1963年、
気象学・気象観測技術の発展に貢献した研究者や技術者を表彰する「藤原賞」を創設しました。
藤原の研究分野にちなんで渦巻きをかたどった正賞のメダルには、
「咲平」の銀文字が刻まれています。
藤原 咲平の格言は著書『天気と気候(昭和9(1934)年)』より。[今週の防災格言307]
曰く。
『 我国は天災国である。 』
藤原作平(ウィキペティアより)
津波や地震等に対して後人を警(いまし)むる為に、石碑の立てられた事も徳川時代からある事で、吾々の祖先は決してこれに対して無関心ではなかった。しかし今日日常の経済関係は容易にこの不時の害敵に対する防御工作を完全にする余裕を与えない。而(しか)して事件が起れば諸新聞雑誌は筆を揃えて事前の準備の不足を責めるのである。
自分らはこれら天災の警戒に携わる職にあり、日夜その過誤なからん事を期しているものであるが、今回の大参事(※昭和9年9月20日の室戸台風)を充分に軽減し得なかった事に対し誠に慚愧に堪えないものである。
嘗(かつ)て二宮尊徳が天明の飢饉に先だち、その当時、何等気象学もなく、又観測機器も組織もないにも拘(かか)わらず、その鋭利な観察力によって、「熱の地に残るも大気中に失はるる」を直観し、先ず、根菜類を作る事を奨め、次に稲に代えるに稗を以(もっ)てし、その為に烏山領の農民は露命(ろめい)を繋(つな)ぐ(※かろうじて生活を続けるの意)に充分な糧を得て、餓死者を出さなかったと云う記事を見て深く感じ又懼(おそ)れた。
今日吾々が斯業(しぎょう=事業の意)の為に大きな国費を費やして、而(しか)もなお予察(よさつ=前もって推察するの意)に足らざる所あれば、実に重大な曠職(こうしょく=職責を十分果たさないことの意)と云わざるを得ない。
然るに今日の気象学は尚幼稚で、到底、凶歳(きょうさい=飢饉の年)を的確に予察するに至らない。
然らば、非科学的の誹(そし)りを感受しながらも、二宮流の直感を働かせる外はない。而(しか)して、この事は到底吾等凡人の能(よ)く成し得る所ではない。又吾々はたとえこれを予察するにしても、なんらこれに対し準備すべき実行権力を持たない。
しかしながら吾々は最善の努力をなし、誤てば即ち罪を天下に俟(待)つの外はない。
自分は本年年頭において或は今年の凶歳ならざるやを憂えた。
併し尊徳の如く、必ず凶歳ありとの断言は不能であった。
即ち只非公式に凶歳たる可能度の頗(すこぶ)る高きを指摘したに止まった。
又今回の台風に際しても、暴風雨の虞(おそれ)あることをば指摘したが、その効果を挙げ得るに至らなかった。
実に農林省の発表米作予想は一千二十万石の大減収を報告され、又台風による死者は三千人を超えている。
誠に恐懼(きょうく)に堪えない次第で、それに就いても一面これら警告を有効ならしめる為め、気象知識の普及を計ることは、今日の一大急務たる事を痛感するものである。
ちょっと話がそれますが、
そう言えば小学校時代に銅像の前で
写真を撮ったような記憶があり、
探してみると下記の物が出てきました。
一緒に写っている先生は算数の「大塚先生」で、
小学校なのに「鶴亀算」ではなく
「X,Y」を使う『連立方程式』を教えて頂いて、
数学が好きになった時の写真です。
約65年位前にはどこの学校にもあった『二宮尊徳像』です。
大塚恩師と二宮尊徳像の前で
藤原博士は『室戸台風』等が発生することは分かっているのに、
農作物の被害や人命を救えないのは自分たちに責任があると迄
思っておられる事が良く分かります。
この人たちのお陰で今日のように気象予報が進歩して、
事前の報道で良く分かり易く万民に知らせる事が出来て来たのは
誠に喜ばしい事と思えるのです。
そして、次に気圧の話です。
気圧の単位は現在では天気予報でおなじみの hPa(ヘクトパスカル)で表されます。
Pa(パスカル)は圧力の単位で、
1 Pa = 1 N/m2(ニュートン毎平方メートル)です。
N(ニュートン)は力の単位です。
気象情報で使われる気圧の単位がミリバールからヘクトパスカルに変わったのは、
1992年(平成4年)12月1日からです。
きっかけは同年5月に行われた計量法の全面改正です。
これを機に国際単位のヘクトパスカルに統一することになります。
日本の気象分野では古くは水銀柱ミリメートル(mmHg)が使われています。
1945年からミリバール(mbar)に切替えられます。
更に1992年12月にヘクトパスカル (hPa)に切替えられたため、
単位としては三つ目になります。
「1気圧はいくらですかですか」と聞かれたら、
私達戦後派は直ぐに 1013ミリバール(mbar) だと答えるでしょう。
約10メートルよりも深い井戸から水を直接吸い上げることができない、
ことは昔習ったことがあるような。
1643年一方の端が閉じたガラス管に水銀を満たし、
水銀を満たした器にこれを立てると、
水の時の約14分の1の約760mmの高さにしかならなく、
それより上の部分は真空になることをトリチェリは発見します。
水と水銀の密度の比も約1:14であることから、
空気による圧力、大気圧によって液体が押されているのとトリチェリは考えました。
同時に、水銀柱の高さは日々微妙であるが変化することも発見します。
また、水銀柱のある場所によっても変わることが分かりました。
(日々の気圧の変化や高さによる変化があること)
このため水銀気圧計の発明者となりました。
このトリチェリのお陰で大気圧の存在が分りました。
トリチェリの真空試験
この水銀柱の高さが760mmになるのは
大気圧と水銀がつり合ったために起こる現象です。
これはトリチェリの真空と呼びます。
そして大気は空気の密度と重力加速度により変化することが分かります。
そこで水銀を考えると
水銀の密度(摂氏0度): 13.5951×103 kg/m3
重力加速度(標準値): 9.80665 m/s2
ということが分かっていますのて、
水銀柱の質量は
質量 = 0.76 m3 × 13.5951×103 kg/m3
= 1.033227×104 kg
なります。
地上での物体は常に地球の重力による加速度(重力加速度)を受けているので,
力は
力 = 質量 × 重力加速度
= 1.033227×104 × 9.80665 m/s2
= 1.01325×105 kg・m/s2
= 1.01325×105 N
1 気圧 (102 =h ヘクトと言う)
= 1.01325×103 hPa
= 1013.25 hPa