2023.07.08
顧問の坪内です。
松原の雨漏り調査に呼ばれて、近鉄電車で「布忍」まで行きました。
近鉄電車を降りて左側に進むと雨漏り現場ですが、
今日は少し早く着いたので、右側に進みました。
時々、現場調査の折には少し早く出るか、
調査を終わった後に、近所のちょっとした名所・旧跡を見ます。
おそらくこの場所にまた【亦】と来ることはないだろうと。
二度と来ることはないだろうと。・・・・・・思いながら。
【亦】に心と書いて「恋」と読みます。
【刃】に心と書いて「忍」と読みます。
近鉄南大阪線「布忍」駅の改札を出てそのまま少し南に進みます。
そこに西から東へと続く長尾街道があります。
近鉄布忍駅前の長尾街道
長尾街道(ながおかいどう)とは、
大阪府堺市堺区から東へ向かい、二上山の北麓・田尻峠を越えて、
奈良県葛城市の長尾神社付近に至る古くからの街道です。
長尾街道を右折して暫らく西に進みます。
そう言えば堺の花田の現場や方違神社に行った時にも
この街道沿いを歩いたことがあります。
布忍駅からの長尾街道
長尾街道を西に100mほど進むと
西除川に架かる布忍橋があります。
この橋の手前を右折して川沿いを北に進みます。
布忍橋を右折します。
200mほど進むと何やら巨木が2本見えます。
おそらく謂れのありそうな立派なものです。
時間があればあれこれと調査したかったのですが、
怪しいままで眺めるだけです。
立派な楠木か
あまりに立派なので、帰社してちょっと調べて見ました。
まつばらの民話をたずねてへようこそ (布忍で聞いた耳袋にから)
「僕の家は昔、庄屋をしていました。どの百姓も水車が買えないので、水車を貸すために水車を置いていました。若林では家に舟をおいていました。田植えを舟に乗ってするのだそうです。それほど、水がひどかったといわれます。水が着きますと僕の家は太鼓をたたきます。寺は鐘ですので、僕の家は太鼓でした。(採集時玄関に有り)「 ♪水つく水つく城連寺/流れ流れて芝、油上/太鼓たたくは向井村/中略/高見あがって/ああ新堂♪」これは水がついて人々が高台へ向かって逃げる道順を唄ったもの。
家を建て替える時、家の敷地内にある楠の霊木を切ろうとして、伐り手を探したのですが誰もいないのですよ。祟りを恐れましてね。もう六百年以上もする霊木ですから。色々あるのですわ。松原では一番古いのではないですかなぁ。布忍神社の「くろがねもち」と「楠の木」でも四百年以上と言われていますから。」
と言われているような楠木のようです。
川の東側をさらに約250m北に進むと
左側に赤い欄干が目立つ宮橋が見えます。
この橋を渡るとすぐ右手に布忍神社があるようです。
布忍神社の赤い宮橋
信号待ちをしていて、直ぐ右横を見ると
何やら由緒正しそうな建物があります。
大林寺と言われるお寺です。
取りあえず何でも良いのでパチリと撮影。
入口は小さいけど謂れの在りそうな。
大林寺の山門
この寺も後で調べると「もっと見るべきだった」と思うだけです。
大林寺はかつて七堂伽藍の広大な寺院であった
永興寺の跡と伝えられているようです。
(河内西国霊場会HPより)
布忍神社の川を隔てたところに融通念佛宗の寺があります。
そこには平安後期の作といわれる木造十一面観音立像、室町時代の木造不動明王座像、
江戸時代宝永~正徳にかけての肉筆による大般若経六百巻、
江戸時代中期の十一面観音の版木などなど…永興寺の隆盛の名残ともいうべき、
貴重な遺物、資料が残されています。
永興寺は、奈良時代の僧永興律師によって草創され、
布忍寺と名付けられたとされています。
のち弘安年間 (1278年~87年)に中興され、
草創の永興律師にちなんで永興寺と呼ばれるようになったと伝えられています。
その後も元禄三年(1690年)に再興され、幾度か衰退と復興をくり返しながら、
明治六年ついに廃仏毀釈の動きの中で廃寺となるに至りました。
その後本堂が、現存する唯一の建造物として柏原市法善寺の壺井寺に移築され、
本尊とみられる十一面観音立像等いくつかの所蔵品がこの大林寺に移されたのです。
大林寺の本堂
大林寺も山門からの写真です。
早く布忍神社に行かなくちゃとせかせています。
やっと立派な赤い宮橋を渡ることが出来ました。
赤い立派な宮橋
おっ、橋の右手からは布忍神社の駐車場が見えます。
そうか、ここはやはり「くるりんぱ」と車で来る処なのだ。
布忍神社の駐車場
「恋は寄り道」と言いますが、
時間が無い無いと言いながら、
何やらお得な情報を手に入れた感じです。
駐車場を右手に北向き正面を向くとこの様な鳥居があります。
この鳥居はこじんまりとしていて、
ここからの参道は「恋の迷路」なのでしょうか。
少し寄り道の参拝となりました。
どうもありがとうございます。