2024.11.30
「南方熊楠記念館」の説明内容
2階の展示室等は残念ながら撮影禁止なのです。
南方熊楠は和歌山県和歌山市出身の人です。
お父さんは物品販売や酒屋で財をなした資産家です。
素晴らしい記憶力の持ち主で、幼い頃より神童と呼ばれていました。
熊楠は17才で上京し東京大学を目指し予備校で勉学に励みます。
この時の校長先生は後の首相となった高橋是清です。
予備校の同級生には夏目漱石、正岡子規などの著名人がいました。
ただ熊楠は学校での勉強に身が入らなくなり
図書館に入り浸りながら学校を落第してしまいます。
東京大学進学の情熱が冷めた熊楠は、やがて
宇宙の「なんぞやを知ってやろう」とアメリカへ留学します。
当然資産家だった両親を説得してのことです。
しかしアメリカの学校でも熊楠は日本と同じように
図書館に通い詰め、やがて退学してしまうのです。
頼りにしていたお父さんが他界し家業は弟が継ぎ
送金も滞りがちになり生活が困窮します。
色々な職業のアルバイトをして植物や粘菌の研究を続けます。
アメリカやキューバ・ハバナで新種の「地衣類」等を発見し有名になります。
そしてアメリカでの生活も自分自身の情熱を満たすことがでず
次には当時の芸術・学問の都ロンドンへ向かいます。
2階展示室(南方熊楠記念館)
ロンドンでも極貧の生活が続きましたが、
学問への熱意が認められ大英博物館への自由な出入りを許されます。
当時世界でも最高レベルの科学誌NATUREが募集した「天文学上の問題」
をテーマにした論文に寄稿し一躍、名前が売れます。
これは当時イギリスの日本人・東洋人にとっても大きな誇りとなります。
当時(明治20年代)ロンドンに滞在している日本人といえば
貴族や政治家、学者の子息といった人達ばかりでした。
熊楠が極めた学問は下記のように20を超えるものでした。
南方熊楠の極めた学問の分類
このうち私が興味を持ったのは屋根の上に共存する「地衣類」でした。
私はお施主様に「地衣類の生息する地域は環境の良い処です」とお話しております。
けど私の興味を引くのは屋根上の「地衣類」なのです。
下記はセメント瓦に付着している「地衣類」です。
名前は『ダイダイゴケ』です。
緑色の枠箇所と青色の枠箇所を拡大してみます。
以前撮影したセメント瓦上の「地衣類」
「地衣類」が綿状に付着しています。
セメントは元々強アルカリ質なので当初は付着が少ないのです。
経年で表面が中性化すると地衣類の生息が促進します。
以前撮影したセメント瓦上の「地衣類」の拡大
下記写真セメント瓦の棟部を固定している銅線部には
「地衣類は付着していません。」
銅線が雨に打たれ銅イオンを含んだ雨水が流れ
「地衣類」が死滅しています。
以前撮影したセメント瓦上の「地衣類」の拡大
ロンドンで知り合った孫文も去って行きます。
また親交を結んでいた日本人達も一人、
また一人と日本へ帰っていきます。
心にポッカリと穴が開いたような気分の熊楠は
大英博物館で事件をおこし、入室を禁止されます。
ここに至って海外で15年も過ごし34才となった熊楠は
郷里である日本の和歌山へ帰る決心をします。
そして数々の功績をあげるのです。
この「南方熊楠記念館」には世界一長い履歴書があります。
元日本郵船社長の矢吹氏が南方熊楠の
研究所設立の寄付をする際に求めた履歴書です。
南方熊楠は矢吹氏の求めに応じて
全長8m、文字数4万5千字の履歴書を作成しました。
これは南方熊楠の足跡を知る重要な資料となっています。
南方熊楠の履歴書
屋上に上がる展示室前の小ホールには
熊楠翁の胸像(保田龍門作)があります。
小ホールから続く本館と結ぶ渡り廊下には
読書スペースを配置してあります。
南方熊楠記念館の渡り廊下
2階展示室は撮影禁止なので
重要な資料はお見せ出来ません。
そんな訳で「地衣類」に関する資料は記録・記憶できませんでした。
残念。
急がされて屋上に上がります。
ありがとうございます。