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2026.04.11

番外編 竜馬がゆく発祥の地『土佐稲荷神社の桜まつり』①

顧問の坪内です。

いつも池本工務店の事業にご支援頂きありがとうございます。
弁天町会社近くの浜屋町通り・バス停「安治川大橋」から
シティーバス「なんば」行きに乗って「松島公園前」に行きます。
いつもは此処から伯楽橋を渡って長堀通りを真直ぐ行き右に折れます。
今日は「西長堀」(鰹座橋)のバス停まで一駅先に行って降ります。
地下鉄の鶴見緑地線でやって来る「知りたがり屋」さんとの待ち合わせです。
ここから南に少し下った処が大阪の隠れた花見の名所「土佐稲荷神社」さんです。
阿波座に居た時は少し北にある小さな神社の
「サムハラ神社」さんに花見に行っていたのです。
少し前から春は「土佐稲荷神社」さんの夜桜見物に来ています。


   グーグル地図「土佐稲荷神社」


大阪市内で花見といえば「大阪城」や「造幣局」が定番です。
桜と言うよりは『人、人、人と桜』見物となります。
一昨年は我が社でも新しい試みで『大阪城夜さくらBBQ大会』でした。
目的地「ミライザ大阪城」に行くのに「大きな大阪城内」の
入口を探して廻りました。
桜を見るというよりは、肉を食べる前から会場に行くのに
体力を使い、夜桜の印象が少ない行事でした。
この『土佐稲荷神社』さんは知っている人は
知っている程度の有名さなのです。
ゆっくり落ち着いた気持ちで見物できる神社なのです。
それでもこのように雪洞が飾られており、
「桜まつり」が演出されています。


    雪洞が華やかな桜まつり


神社の境内には、多くの灯篭や鳥居が設置されています。
楽しそうな狛犬や愛嬌のある狐など動物の石碑も多くあります。
お稲荷さんなので、京都の伏見稲荷に関係あるのかと思えば、
『大当たり』です。
その昔土佐藩主山内家が伏見稲荷を信心していたらしいのです。
神社の由緒書に依れば発祥は安土桃山時代にさかのぼるようです。
大阪城築城の時の石が霊験あらたかと言われ
お祀りしたのが初めだそうです。
「江戸時代、長堀川(現在の長堀通り)
鰹座橋の橋畔なる土佐藩蔵屋敷に鎮座し、
享保年間(1710)藩主、山内豊隆の崇敬するところとなり、
蔵屋敷の鎮守神として崇められるに至った。 
爾来、山内家は参勤の途次には必ず立ち寄り敬意を表し、
造営修復は藩費を以て奉納した」とあります。


    「土佐稲荷神社」由緒書


このように『土佐稲荷神社』さんのことを調べていると、
江戸時代から明治維新にかけての時代の流れが面白く知れます。
その昔、土佐藩の蔵屋敷がこの場所にあり、
幕末にはフランスの軍艦の船員を殺傷した土佐藩士が
『切腹』させられた堺事件にも関わっています。
この神社で「切腹」の順番を決める籤を引いたらしいのです。
その後、土佐藩出身の岩崎彌太郎が買取り
三菱財閥を立ち上げたのもこの地です。
そして、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書いたのも
この『土佐稲荷神社』さんに関わるお話なのです。


   「桜並木の中を探索に行きます


土佐藩・大坂蔵屋敷はどのようにあったのでしょうかね。
土佐藩邸跡の北側に長堀通り(長堀川)があり、
鰹座橋と白髪橋が地名として残っています。
鰹座橋は、土佐の鰹をさばく鰹座があったことに
由来しているらしいのです。
白髪橋は、土佐の白髪山から檜(ひのき)を運び出し、

材木にしてこの地で売っていたらしいのです。
両橋とも土佐藩が商売にしていて架けられた橋なのです。
確かに現在も高知といえば鰹のたたきや檜の木材が有名です。
1845
年(弘化2年)の大坂細見図を参考に
グーグル地図に鰹座橋と白髪橋を入れて見ました。
古地図を見ると、鰹座橋と白髪橋、新玉造橋は
長堀川に架かっています。
そして土佐藩の大坂蔵屋敷前まであったことがわかります。
又、白髪橋の北側にも土佐藩に関わる屋敷もあったようです。
白髪橋
鰹座橋
新玉造橋
カメ橋(中央図書館前)


1845年(弘化2年)の大坂細見図(幕末散歩出典)


それを現在の地図と比較してみました。
現在の鰹座橋は、大阪市立中央図書館の前の通り(新なにわ筋)にあります。
ここまでが土佐藩邸だったようです。
西端は(新玉造橋)とあり、現在の玉造橋にあたります。
これは『土佐稲荷神社』さんの西に一致していることがわかります。

では南端はどこまでだったのでしょうか?
調べてみた結果…区民センター、こども文化センター、
中央図書館敷地、公文書館、土佐公園、西高校までの公共文施設が

土佐藩邸(土佐藩大坂蔵屋敷)だったということになります。
「土佐稲荷神社」さんはオレンジ色で囲った場所です。
赤色太線で囲った場所が土佐藩大坂屋敷になると思われます。


グーグル地図「土佐稲荷神社」と「土佐藩屋敷跡」


江戸時代、大阪の長堀にあった蔵屋敷には実務的な仕事は
蔵屋敷に出入りの上方町人に担当させていたようです。
土佐問屋を設定して土佐の国産物を主に売買させています。
明治初年に、岩崎彌太郎が大阪蔵屋敷および土佐開成社
(現在の西区役所)の総支配人として着任してきました。
という事は、長堀川の北側にも土佐藩に関係した建物が多くあった事になります。
時代は江戸から明治になり、
廃藩置県で大借金の土佐藩は
岩崎彌太郎にこの土佐藩大坂蔵屋敷を借金ごと払い下げします。
明治に入り岩崎彌太郎の民有地となっています。
当時、土佐藩は莫大な借金がありました。
 (
ひょっとしてこの借金も堺事件の賠償金に関係があるかも知れません)


  提灯や雪洞が本堂まで続きます


明治となり『三菱』の創業者である岩崎彌太郎は
以降岩崎家の土地としてこの一画に居を構えました。

というわけで、三菱発祥の地となります。
やがて、社殿も立派にし、「土佐稲荷神社」と呼ばれるようになります。
岩崎彌太郎は、36才から40才まで、この地で活躍しました。
彼の屋敷は、「土佐稲荷神社」さんの東にあり明治20年頃拡張されて、
桜を植え、今の「土佐稲荷神社」さんの形になったらしいのです。
私は三菱関係者ではありませんので良くは知りませんが
九十九商店の後、このあたりの3つの川から三川商会という名前となります。
その後に三菱商会の名前に改編されたそうです。

明治7年に三菱は本社を東京に移す時に、
岩崎彌太郎はこの建物・土地を大阪府に譲渡しました。
従ってこの周辺は公共の施設が建ち並んでいるのです。
しかし『土佐稲荷神社』さんは三菱で守ることにしたそうです。


      本堂の献灯提灯


神社の周りには三菱関連の企業の名前の付いた玉垣が並んでいます。
三菱もスタートのゆかりの地は大阪だったのですね。
土佐藩出身の坂本龍馬も大阪でのスタートはこの地なのです。
もう少し続きます。

ありがとうございます。