ブログBlog

2026.04.18

番外編 竜馬がゆく発祥の『土佐稲荷神社の桜まつり』②

顧問の坪内です。

いつも池本工務店の事業にご支援頂きありがとうございます。
自称『龍馬ファンの武田鉄矢』さんも
司馬遼太郎の「竜馬がゆくを読んで
坂本龍馬のファンになったらしいのです。
その司馬さんは「
土佐稲荷神社」さん本殿横の11階建てアパートに住んで居たという逸話があります。
それは
西長堀アパート」と言われる建物(通称マンモスアパート)で10階に住んで居た事があるらしいのです。

「土佐稲荷神社」満開間近のソメイヨシノサクラ


司馬さんは1959(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりさんと再婚します。
そして12月に大阪市
西区西長堀のこのアパートに転居します。
又、同じアパートにID野球で一斉を風靡した、元
南海ホークス捕手の「野村克也さんもいたそうなのです。

更に、「放浪記」林芙美子の舞台で有名な大女優の「森 光子」さんもいたらしいのです。
写真左側の11階建建物が
西長堀アパート」で、赤い建物は「土佐稲荷神社」さん奥の院です。

左のアパートの10階に司馬遼太郎は住んで居た(グーグルストリートビュー)


司馬さんは1960(昭和35年)『梟の城』で第42直木賞を受賞します。
翌年に産経新聞社を退社して、作家生活に入ります。
司馬さんはこの神社の宮司さんに岩崎彌太郎さんの話を聞き
岩崎彌太郎さんの調査で土佐に行きます。
調査を続けるうちにあちこちで坂本龍馬の話を聞きます。
そして「竜馬がゆく」の着想を得たらしいのです。
大阪に帰って来た司馬さんはこのマンモスアパートから
『土佐稲荷神社』さんを見下ろしながら「竜馬がゆく」を書いていたのです。
時々この様な夜市を覗いて散歩でもしていたのかも知れません。

「土佐稲荷神社」本殿への石畳と夜店


司馬さんは小説の着想にあたり、高知取材から大阪への帰りに
自身の姿を「俺は小説界の坂本龍馬だ」だと言い聞かせます。
「この歴史小説界の維新、いや小説界を切り開くのは俺なのだ。」
と言ったかどうかは知りませんが
自分自身に強く自問自答しながらペンを走らせたのです。
1962(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』を書いています。
1963(昭和38年)より『国盗り物語』を書いています。
この時期から本格的に歴史小説家として自覚し、執筆活動に入るのです。
そして、1964(昭和39年)には、終の住処とする
布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居するのです。
因みに私はこの時、故郷島根の太田中学校3年生修学旅行で、
4
月には京都、奈良、神戸、大阪に来ているのです。
司馬遼太郎さんは
おそらくこの駐車場に車を停めて引っ越しをしたのです。
正面の大きな樹木のある杜が「土佐稲荷神社」さんなのです。


   左が西長堀(マンモス)アパートなのです


坂本龍馬の逸話には何度か「さくら」が出てきます。
龍馬が脱藩(出奔)して「国」を出た時、「桜を見に行く」と言ったらしいのです
坂本龍馬ファンの人は100人中100人がそう思っています。
物の本によれば江戸時代以前は「脱藩」と言う言葉は
あまり使用していなかったと聞きます。
一般的には「国」や「氏」を使用していたとか。
幕末の時代には多少使用例が見られたらしいのですが。
多くは明治21869)年の版籍奉還から明治4年の
3
百余藩「廃藩置県」までの、2年足らずの呼称らしいのです。
そのため脱藩という言葉も明治以降に定着した言葉らしいのです。
江戸時代には「出奔」や「欠落(かけおち)」という言葉を用いていたとか。
つまり本来は「龍馬脱藩」ではなく「龍馬出奔」が正しい言い方かも。
なぜなら龍馬は次男坊で、長男(当主)ではなく処罰は軽く、
脱藩しても大きな責任も無く本人だけの問題になるらしいのです。
そうなればその後の龍馬の大胆不敵な行動もガテンが行きます。
司馬さんの『竜馬がゆく』では、この場面は次のように描かれています。
龍馬の姉さんが言います。
「脱藩すればもう二度とお国に戻って来れませんよ。
・・・・・・。()
以下を知りたい方は司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を読んでください。

坂本龍馬と桜と言えば、もう一つ幕末に龍馬さんが好んで唄った都々逸があります。
「咲いた桜になぜ駒つなぐ/駒が勇めば花が散る」です。
この内容は元々伊勢の民謡で男女の事を謳った楽しい唄らしいのです。
龍馬さんが唄うとなかなかおつな内容となります。
この「土佐稲荷神社の枝垂れ桜」もなかなかのものでございます。


  「土佐稲荷神社」の枝垂れさくら


慶応4年(1868215日、フランス軍艦より水兵数十人が堺に上陸します。
市内を闊歩し婦女子を追回すなど傍若無人の振舞いに
近隣住民の苦情を受けます。
土佐藩六番隊警備隊長の箕浦元章(猪之吉)
   八番隊警備隊長の西村氏同(佐平次)
等はフランス水兵に帰艦をお願いしますが、言葉が通じず
両者銃撃応酬をします。
土佐藩兵側がフランス水兵を射殺・海に落として溺死させます。
遺体は
16日に引き渡しを終え、フランス兵は11名の死者を出し国際問題となります。
20人の死刑がきまり、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官は死刑が決定します。
残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶこととなり
大坂土佐藩屋敷にあるこの「土佐稲荷神社」で籤を引いて決めたのです。

この「堺事件」は2025.10.04の私のブログの地図に示すことが出来ます。
番外編 堺の美味いもんと『さくらサーカス ①』(さくらサーカス編 Ⓐ)(プノンペンそば)
に載せている堺市の地図の中に死刑(切腹)場所「妙国寺」を示すと以下のようになります。
そして(プノンペンそば)は途中で番外編になり、今は脱線して『博多ラーメン』を執筆中です。


グーグル写真地図による「妙国寺」の位置


箕浦猪之吉、西村左平次等の土佐藩士20名に切腹命じられます。
慶応4年(1868223日、妙国寺において日仏立会人の面前で堂々と割腹自刃(切腹)します。
11
名が切腹を遂げ12人目にかかろうとした時、切腹は急遽中止とされます。
フランスの立会検視人もその凄絶な様を見るに忍びがたく残り9名は土佐に返されます。


グーグル写真地図による「妙国寺」と「宝殊院」の位置


森鴎外(堺事件 出典)に詳しく書かれています。
箕浦は黒羅紗(くろらしゃ)の羽織に小袴(こばかま)を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁官以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手(めて)に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。「フランス人共聴け。己(おれ)は汝等(うぬら)のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手(さかて)に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口(きずぐち)は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に※し込んで、大網(だいもう)を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨(にら)み付けた。 馬場が刀を抜いて項(うなじ)を一刀切ったが、浅かった。「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。 馬場の二の太刀は頸椎(けいつい)を断って、かっと音がした。 箕浦は又大声を放って、「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭(きょうがい)と畏怖(いふ)とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所(おきどころ)に迷った。馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜(おと)した。
次に呼び出された西村は温厚な人である。源姓、名は氏同(うじあつ)。土佐郡江の口村に住んでいた。家禄四十石の馬廻である。弘化二年七月に生れて、当年二十四歳になる。歩兵小隊司令には慶応三年八月になった。西村は軍服を着て切腹の座に着いたが、服の釦鈕(ぼたん)を一つ一つ丁寧にはずした。さて短刀を取って左に突き立て、少し右へ引き掛けて、浅過ぎると思ったらしく、更に深く突き立てて緩(ゆるや)かに右へ引いた。介錯人の小坂は少し慌(あわ)てたらしく、西村がまだ右へ引いているうちに、背後から切った。首は三間ばかり飛んだ。・・・・・・()
次は十二人目の橋詰である。橋詰が出て座に着く頃は、もう四辺(あたり)が昏(くら)くなって、本堂には燈明が附いた。フランス公使はこれまで不安に堪えぬ様子で、起ったり居たりしていた。この不安は次第に銃を執(と)って立っている兵卒に波及した。姿勢は悉(ことごと)く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合うようになった。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公使が何か一言云うと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席を離れ、我皇族並に諸役人に会釈もせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切って、寺の門を出るや否や、公使を包擁(ほうよう)した兵卒は駆歩(かけあし)に移って港口へ走った。
壮絶な光景を目撃した立
会人フランス軍艦長は(フランスの被害者数と同じ)11が切腹したところで外国局判事五代友厚(才助)に中を要請し、結果として9が助命されたのです。
妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。
妙国寺は天皇に関わる寺なので切腹者を葬るのは良くないと相談され向かいの「宝珠院」とされたのです。
箕浦を頭(かしら)に柳瀬までの碑が一列に並んでいます。
宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶(おおがめ)が切石の上に伏せてあります。
そしてその中に入るべくして入らなかった九人の遺物もあります。


「土佐稲荷神社」のさくらの下での宴会


さてさて、色々な事件がありまして、楽しい宴が続きます。
「さくらの一番有名な歌()」と言えば良寛和尚の

散る桜 残る桜も 散る桜

であります。
我々も何処かそこらの寿司屋にでも寄って「かつお」でも摘まみますか。

ありがとうございます。