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2026.05.23

番外編 松竹座歌舞伎『さよなら公演』①

顧問の坪内です。

いつも池本工務店の事業にご支援いただきありがとうございます。
阪松座が建物の朽化に伴い今年(2026)5末に閉館となります。その貴重な切符を頂きまして、425日に久しぶりに道頓堀に出かけてきました。道頓堀は今から60数年前(1964)中学3年生の時に田舎から修学旅行に来たのが初めてでした。その時、道頓堀沿いの日本橋寄り旅館に泊まり(赤い灯~青い灯~道頓堀の~という、道頓堀行進曲の歌詞に唄われるような道頓堀沿いでした。)、夜の心斎橋通りを道頓堀から心斎橋まで道の模様を負いながら歩いたのを記憶しています。更に昭和47年東京から転勤で大阪に来て、この道頓堀の向かいの茶色ビル1階の喫茶店で、ミックスジュースを飲んだ事を思い出します。店のマスターはバナナの皮を剥いた後、筋を一本一本丁寧に外すのです。この筋がジュースの味を悪くするのだと。

      久しぶりの道頓堀川


そして、道頓堀の入口に鎮座します肉処『はり重』です。大阪に住んで居たらこの『はり重』のすき焼きを食べなくては肉を食べたことにならないと聞きます。あの毒舌で通った「上岡龍太郎」さんが引退後に、すき焼きが食べたくてこっそりと『はり重』のすき焼きを食べていたという逸話も残っています。

       肉処『はり重』


松竹が経営する松竹座は1923年(大正12年)に、日本初の鉄骨鉄筋コンクリート造の映画館として竣工しました。設計は劇場建築の名手と言われた大林組の木村得三郎が担当しました。建築様式はネオ・ルネッサンス様式と言われ、イタリア・ミラノのスカラ座をイメージして造られたらしいのです。建物は、正面玄関にテラコッタを使った大きなアーチが特徴的で現在も正面2階から3階にかけて当時の姿のまま残っています。当時これが名物となり、『道頓堀の凱旋門』の愛称で大阪の人々に親しまれてきたというのです。正面および側面にかけてあるアメリカ製テラコッタは焼煉焼されており、外壁が美しく華やかに飾られています。平成9年には、地上8階・地下2階建ての新しい演劇専門劇場として生まれ変わった時に老朽化の激しい箇所は一新されたようです。

     残念ながらの『松竹座』


入口付近はえらい混雑です。
普段の観光客の外人さんと歌舞伎見物の順番待ちの人達です。
建物の左側には歌舞伎役者さんの幟(懸垂幕)がはためいています。


     幟や人々で賑わう玄関先


正面玄関には『御名残四月大歌舞伎』との看板があります。( ウィキペディアを参考に)
因みに看板と歌舞伎には深い関係があります。「二枚目」という用語は、歌舞伎用語をもとに、江戸時代に生まれたようです。歌舞伎の看板は、通常 は8枚から成っており、一枚目の看板は「書き出し」と言われ、主役の名が書かれています。二枚目の看板には若い色男の役者の名が書かれることになっていたのです。また、三枚目の看板には道化役の名が書かれることになっています。歌舞伎では美男子というと、美しく見せるべく化粧で白く塗っていたため、「二枚目」という言葉はやさ男(「優男」の字が当てられる事が多い)の美男子を意味するようになったのです。
一枚目:主役:そのまま主役。「一枚看板」という用法もあります
二枚目:色男:優男で色事担当
三枚目:道化:お笑い担当
四枚目:中軸:中堅役者 まとめ役
五枚目:敵役:一般的な敵役
六枚目:実敵:憎めない善要素のある敵役
七枚目:実悪:巨悪 ラスボス 全ての悪事の黒幕
八枚目:座長:元締め


      正面の『御名残看板』


玄関から誘導されてエスカレーターに乘り、
劇場内の2階に上がり観音開きのドアを開けます。
正面下にはオレンジ色(柿色)を基調とした緞帳がお出迎えします。
この緞帳は、高倉家に伝わる調進控有職文様絵形の
下絵集成の中から取材した『有職麗華』(ゆうそくれいか)という題名らしいのです。
(
有職文様とは平安時代以後、公家や女房などの装束や調度に用いられた文様のことです。)


      2階席からの客席・緞帳


床面は赤を基調として、非日常的な空間が演出されています。
席は2階の一番前の左側端です。
華やかで気品あふれる客席で、ゆったりとして鑑賞できそうです。
お隣さんたちはまだ来られていない様です。


       2階席の賑わい


さあ始まり始まり

彦山権現誓助剱『毛谷村』(あらすじは『毛谷村』HPを参考に)
 豊前の国、英彦山の麓につましく暮らす六助は善良誠実な青年です。
武術に優れているのに仕官もしなくて、
小倉藩
は六助に試合で勝った武芸者には
小倉藩の剣術指南として召し抱えると触れ書を出しているほどの人物です。
ある日、六助は母の四十九日の墓参に来ていた、微塵弾正と名のる浪人と出会います。
弾正は明日六助と試合をする相手なのですが、耳の遠い老女を背負っています。
六助に勝って小倉藩に仕官して母に孝行したいので六助にわざと負けてほしいと訴えます。
人の良い六助は快く承諾します。
六助は帰り道で幼い男の子を連れた
若い武士が暴漢に襲われているのを助けます。
しかし、武士は幼子を頼むとい残して息絶えてしまいます。
六助はそのを家に連れ帰るのです。


  『毛谷村』のひとコマ(松竹HPより)


梅が咲き、鶯の声がきこえる静かな山里の六助の住まいです。
門前には、幼子が住んで居るように幼子の着物が干してあります。
その庭先で弾正との試合が行われ、六助は約束通りわざと負けるのです。
勝った勝ったと威張る弾正に眉間を激しく傷つけられても
優しく笑って激励する六助なのです。
そこへ旅姿の老女が少し疲れているので休ませてほしいとやって来ます。
心から親切に応対する六助に、
老女はこの幼子の母親になってやろうと言い出します。
訳が分からぬまま奥で休んでもらいます。
遊びに行っていた幼子が帰ってきます。
幼子は母が恋しいと泣くのです。
六助はやさしく寝かしつけます。
 そこに怪しげな虚無僧がやってきます。
虚無僧は雲助らに襲われますが、
武芸の心得が有るのか簡単にやり込めます。
その様子を見ていた六助は、虚無僧の動きから女だと見破ります。
は天蓋をとって正体を現します。
虚無僧は「家来の敵」と六助に斬りかかってきます。
すると幼
び起きて、「おばさま」とすがりつきます。
六助は
どもをあやしながら前からの顛末を語り、名を名のります。
それを聞くや、
はそれまでの勇ましさはどこへやら、
「わたしゃお前の
房じゃ」と口走り、
今度は急にしおらしくなり六助の世話をしはじめます。
 
は実は吉岡味斎の娘お園でした。
味斎は、かつて六助に剣術の奥義を授けた師匠だったのです。
お園は
から将来は六助と夫婦になるようにと聞かされていました。
を京極内匠に闇討ちにされて、妹と一緒に仇討の旅に出ていたのです。
妹お菊まで内匠に返り討ちにされてしまいます。
六助が助けた幼
はお菊の・弥三松だったのです。
そこへ先ほどの旅の
老女が出てきて、味斎の後室お幸と分を明かします。
師との約束を果たし仇討に参加するため、
六助はお幸の仲
ちでお園と祝を挙げるのです。
 そこへ杣の斧右衛
が、が何者かに殺されたので
敵を討って欲しいと、友達と一緒にやって来ます。
六助が亡き骸を
ると微塵弾正がっていた老女だったのです。
六助をだますために利
され、封じの為、殺されたのです。
さすがの六助も激怒します。
さらにお幸やお園の話から、弾正こそが敵の京極内匠なのだと判るのです。
六助たちは遺恨を晴らす
身支度をして出するのです。
初役で挑んだ中村獅童の六助に、私たちは大きな拍手を送くります。

  『毛谷村』のひとコマ(松竹HPより)


1幕が終了すると少しの休息時間がありました。
早速、ほとんどの人がお弁当を開けて食べ出しました。
私達も負けじとお弁当を開けると写真の様な美味しそうな「幕ノ内」です。
まずお茶を頂いて、徐に「玉子焼き」を頂きます。
「美味しいね。」と会い付知を打つと、
場内放送で、「休憩時間は終わりました。」
「お弁当はお仕舞い下さい。」と流れます。
「お弁当は次のお芝居の後にして下さい。」
結局お弁当時間は二回となるのです。


    美味しそうな「幕ノ内」


坂田藤十郎七回忌追善狂言の『夕霧名残の正月』。
(あらすじは『夕霧名残の正月』HPを参考に)

大阪新町の扇屋の座敷では亭主の三郎兵衛が、
病気で亡くなった夕霧の法要の支度をしています。
太鼓持の鶴七が夕霧に会いにきた伊左衛門の来訪を告げると
扇屋の女房おふさが出迎え、二人でその死を悼むところへ、
不思議なことに夕霧が姿を現し寄り添います。
伊左衛門と夕霧が昔を懐かしみながら踊り始めると、
しかし、その幸せな時間は長くは続きません。

やがて夕霧は静かに姿を消していきます。
残されたのは、叶わない恋と取り返すことのできない時間への想いです。
その先にある“虚しさ”と“追想”を追求しています。
「失って初めて気づく想い」を描いた回顧劇なのです。
私には分かりませんが、常連さんの観客も思わずうっとりしているのでは。
『夕霧名残の正月』。専門家によると、平成になってから亡き山城屋が
藤十郎を襲名する際に再構築して初演した常磐津舞踊劇らしいのです。


  暫しの休憩「定式幕」が閉まります


これで二回目の弁当時間です。
休息時間は30分もあるので、トイレにも行けるのです。
私達にはこの時間が一番のご馳走で御座りまする。

ありがとうございます。